昭和41年06月25日 朝の御理解



 信心をさせて頂く者の大事なところと、色々ここが焦点、ここが大事なところ、ここを大事にしなければならないと。とりわけここのところはと、いうところがございます。中にも私は言うておる事よりも、行うておる事が立派であると言う様な信心をしなけばダメだと。言うておる事は立派、けれども行うておる事はしだごだと言う様な事では、私はおかげが本当の事になって来る事はないと。シナの言葉に、小人閑居して不善をなすといったような言葉がございます。
 小さい人間は暇があると、決して善くないことはしない。悪い事をするって意味なんでしょう。そう言う時ほど例えば立派、人大きい人は、それを有効に有り難い方に使うということでしょう。誰もみておらんから、誰も聞いていないから、いわゆる不善をなしてはいけません。そういうところを、とりわけ大事にしていかなならんと。信心とはそこだと、また人間の値打ちはそこだと思うですね。
 だからそういう意味で値打ちのある人達は少ないと言う事になります。言うておる事は立派。けれどもその事はほんの口だけ。いや言うておるけれどもそれは心の中では、ほんのちょっぴりと。それではいけん。それこそ氷山の一角じゃないですけれども、形に表れている所は、たったあれだけなんだけれども。あの人が思うてござる言、実際行いござるる所は、それこそ下の方へどれだけ根があるやら分からんと言った様な。
 そういう人物に、ならせて頂く事の稽古をしなければいけない、どうでしょうか皆さん、そこんところにでけているでしょうか。またでけてないにしても、そうでなからなければならんと、本気で思うておるでしょうか。でなかったら信心はだめです。(?)信心だったらつまらんです。むしろ目に見えないところを大事にしていくことに、楽しみが感じられるような信心にならなければダメです。
 昨日、福岡の渡辺先生がみえました。この建築のことについても、まぁ色々な意味で一生懸命、女ながらも一生懸命打ち込んでおられます。それこそ、目に見えるところ、見えないところ。誰も神様と私だけしか知らんというようなところにも、一生懸命打ち込んでおられます。ですから、やはり、家の中でも美術を担当しておられる。また色々建築には造詣も深いから、みんなも相談もする。又自分も時間を惜しまずにやって来ては、まぁ色々大工さんに注文をつけられたり。
 または設計士やら、また幹部の総代さん方やら、担当しておる方達にも進言される。それが、熱心であるからだからこそ、それができるのです。少しでももう立派なご造営にならなければならない、という願いをもっておられるから、からだと私は思うです。先日も高橋さんから電話が掛って来てから、炊事場と勝手の方の工夫をしてくれと。いわゆる一晩寝らず見取り図を書き上げた。所がそのごなんとも言って来られないから電話を掛けて高橋さんに、どう言う事だっただろうか。
 で私どもに古谷さん達が見えると言う事でございますけれども、いうなら今日私が朝からろくに寝らずに待っておるからおいでて頂きたいと言うて、電話をしましたけれどもとうとう見えられなかった。行くとこもあったんだけれども、まあ電話をかけておる手前、(?)いうなら痺れを切らして、古屋さんのほうに直接電話をかけられて、ところがそれはあのどういう意味かしらんですど、古屋さんから電話の返事が、どういうことかというと、渡辺先生そんなことはご放任に下さいというて電話、返事やった。
 もうがっかりしてある。いうことは、そのことは放任くださいということは、言葉はいいようですけども、あなたそのことは構わんでおいて下さいという意味でしょうもんね。あのお広前の今日までの事だって、けっして古屋さんだけの力じゃないです。例えばもう、あの惟はもう本当に皆んなが信心し、皆んなが一生懸命に、あぁがようはなかろうか、こうがようはなかろうか、というあれがあってこそ、そこに専門的な知恵というか、その学理にも合った。
 いわば玄人と素人の練り合いが、いわば玄人が気が付かん様な所に、素晴らしい所も発揮出来て行きよるのですあれは。ですから惟はまぁ私として聞かして頂いてから、なんといういうなら方言だろうかと私は思いますですね。しかもそのこちらから頼んどいてから、そのそのことはご放任ください。皆さんならこげな場合、どのようなふうに思われるのでしょうか。まぁ私共が言うても取り上げられんからもう知らん。まぁ大体こうでしょうね。けれどもね、こういう話なんです。
 皆さんのおかげが直結してないような話なんですけれども、実はおかげに直結しておる話ですから、一つ聞いて頂かないかんのです。そう言う様な事をいつもあるのです、お互いの日常の中に。そういうところ、そこんところを大事にしていくのが信心です。それが皆さんの思うておる、おかげに直結しているのです。ですから先生私はどんなふうに、この御造営の事については、話して頂いたらいいだろうか、思わして頂いても良いだろかという、お伺いがありました。
 それは古屋さんがご放任くださいと仰るなら、放任したらいいでしょと私は申しました。いわゆる放任してからお縋りなさったらいいと思います。放任してからお願いなさったらいいと思いますと。どんなに心配な事でも、それが聞き届けられないと。という時には今の様に願いよる外ございませんもん。そのことが切実であれば、願うことが。自分が信心しておるということが、大事と思えば思うほど。
 まぁいっぺん実意を持って、そのことを言うてみるということも大事ですけれども、それでもやはり、放任して下さると言う様な、相手方が出られるならです、なら構わんというとこには、私自身信心がありませんよと。自分の可愛い子供が病気をしておるからといって、枕元に座っていただけじゃおかげにならんて、しんしょう言うたり悪い事をしたりしてから。
 もう本当にこの子ばっかりは構わんぞと、言う様な時があろうがと、もう構わんぞという心になって、神に縋ってやれとおっしゃる。理屈は同しこと。もうそげなこと言うごたあるなら構わんぞと、言う様な気がするけれども、それでは信心にならないということ。ですからむしろ、そこんところは形に表れておる目に見えるところよりもです、見えぬところを大事にさしてもろうて、そのために誰も気が付かん様な所にです、そこんところに私は精進さしてもらう。
 そこん所に一修行、修行でもさして頂いてから、祈っていく縋って行くと言う様な事が、私大事じゃなかろうか。大事だと私は確信する。だからそこからです、おかげを受けていくはそこ辺からが違うと思うです。もう構わんであげて下さい、あぁなら構いませんよ。もう私どんでちゃ通らんから、いわば本当にご造営ならご造営の事を、切実にです、神様の心に叶うご造営でありますようにということ。そんなことで、あれやらこれやらが、いよいよもたもたしておるという感じ。
 ばたばたっと決めりゃよいところに。炊事場の方のこと、それからお風呂場のこと、燃料関係のこと。(?)ようなこと。もう目の前にその話し合いでもしてから、決めなければならないような問題が、そこでがたがた、ここでがたがた言うとるだけで、総合的なまとまりがつかんから、一向に(?車の音?)がいらないように、いうならば素人がなんて言いよるかと、素人は言わんどいてくれと、良い言葉で言えば、まぁそのことはご放任くださいと言った様な行き方で行きよるから。
 こんな風にもたもたしておるのではないか、と言う風に私も感じる。その私言おうとしていることはその事じゃないんですけれどね、それでも関連しておるからついでながら申します。だから、これはまぁ全面的に申しますと、そのこともまたおかげであるということ。2日かかるところが、10日もそのことで、もたもたしておるということ、そのこともおかげであると。そこから深い御神意があってのことなんだと。
 ですからそういう時に短気を起こさずに、そういう時にあたしは構わんぞと言う事じゃなくて、いよいよ修行でもさして頂いて、そのことが祈れれると願えれると。これだけはどうでも、おかげ頂かなきゃならんと思うならです。それこそ神様しかご、承知じゃない、親先生だけしかご承知じゃないという、そこんとこだけでも本気になって、御用頂いていけばそれでいいのだと。そして、相談受けたならば、、そのこととして私の言うことは通らんからと言う様な突っぱねるようなものではなくて。
 またそこを実意を持って待ったらいいのだと。そしてそれが採用されるされないは問題じゃないのだと。というようなです、私は心そういう心掛けの上に、私はおかげを受けられると思う。そういうところに、信心は焦点を置かないといけないと思う。その様な事を私思わして頂いておりましたら、あれは加賀千代ですかね、あの「朝顔につるべ取られてもらい水」というある句がございます。そういう情景です、井戸に、井戸んところにあの、竿がこうおいてありますもん、竿っていうか、つるべですたいね。
 つるべ井戸。それにこうやって朝顔が巻かっているところを頂きます。ははぁここんところが1つ、豊かな心、いかに水を汲むのに、邪魔になっているのようだけれどもです、ほんい邪魔な、日千切ってしまうような風情のないことではいけんと。ほんとにここに、せっかく咲いておるのであるからと、もらい水をしてからでもです、そこんところを豊かな心で、いうなら情緒のある、趣のある思い方っていうのがあるんだと。
 こうやっていかにももたもたして、話が進行しないと言う様にあるけども、そこにも深い御神意があることであるから、豊かな心でそこんところを、それこそ加賀千代が、つるべに朝顔が巻きついておるのをです、そこからむしろああした、美しい句が生まれたようにです、もらい水してからでも、他に回り道をしてからでもです、するような豊かさがいるんだと言う様な頂いてから、その事もおかげなんだとこう言う事です。古屋さんがばっかりは、どうしてがどうしたこつ言う人じゃろうかというのではないと。
 そこんところにはそういう大きな御神意があってのことなんだと。どうでもなら(?)としてはです、ご放任くださるのなら、放任するぞと言う様な事ではなくてです、そのことは確かに放任さして貰って、けれどもこの(?)においては、修行の上においてはその事に対するところの、願い信心というのが、なされなければならない。いわば自分の言うことすることは取りあげられなくても。
 形に表れなくても、(?)の願い、祈り、修行の方が大きいと、言う様な信心をさして貰わなければならん。目に見えるおかげより、目に見えないおかげの方が大きい、と仰る。目に見えないおかげの、大きいおかげをおかげと分からして頂くためにもです、私共が目には見えない、人にはいわば認められなくてもです。神様が認めて下さることのために、小人閑居して不善をなすと言う様な。
 一般のはそうなんだけれども、信心さして頂く者はどうでも一つ大人にならなければならん。目に見えないところを本気で大事にさして貰わなきゃならん。大事にするだけじゃなくて、いよいよそれを修行でもさして頂いて、それを大事にしていかなければならない。そのくらいな心掛けが信心を進めていくというか、信心を体得さして頂くためには必要であると、私は思うですね。
   どうぞ。